前原弘昌のバイク旅

北米旅④ *家族をいかに…

2010年03月24日(水曜日)

★家族をいかに説得するか

 今回は女房も子供達も、とりあえずカナダまでは一緒に行ける。その後彼らを残して、一人でツーリングに出かけることについては、

 「えーっ、ずっと一緒じゃないの?自分だけちょっとずるいわぁー」

 とはいうものの、あこがれのカナダへ自分たちも行けるとあって、そうきつくはない。 

 5年前のオーストラリアの時、長男の宏光は小2、長女の未佳は幼稚園年中、次女の由佳は1歳の誕生日を迎える前だった。その子供達も、もうそれぞれ中1、小4、幼稚園年長にまでなっていた。そういう状況もうまくいった要因のひとつだろう。

 女房と子供達は三週間滞在し、俺は全部で48日間の予定。それで何とか了解が取れた。

 両親も前回の時とはうって変わって、ほとんど反対らしい言葉はなかった。だが、それには理由がある。昨春、彼らは二人でカナダに行ったのだ。その計画を聞かされたとき、俺は唖然とした。いかに息子とその家族が住んでいるとはいえ、入国の手続きなどどうするのだ。外国語などほとんど解らない、田舎育ちの70歳に手が届こうとしている老夫婦が考えついたことにしては、無謀とも言えるものだった。オーストラリアに行くとき、猛反対された仕返しには、絶好のチャンスだ。俺の意地悪の部分が頭をもたげた。

 「俺の時にはあれほど反対したのに、自分たちはどうなんだ……」

 と。そんな個人的な思いもあり、長男として、俺はどうしようか迷った。

 だが、そんな妨害はやめることにした。

 「反対しようかと思うたけど、俺には行きたいという気持ちはようわかる。それにこの歳になるまで、自分たちの楽しみはおいといて、財産もないのに子供を3人育ててくれたんやし、子供らもそれぞれ家庭を持った。もう自分たちが楽しんでもええわな。心配には違いないけど、向こうに行けば孝司がおることやし、こっちでできる協力はする事にした。ガイドブックくらいなら、選ぶの手伝うで」
こうして気持ちよく送り出すことにした。反対するより、やりたいというならうまくできるように支援してやろう。結局両親は向こうに一ヵ月も滞在し、大満足をして帰ってきた。その後の考え方も、昔風のかたくなな決めつけをするものから、少し開かれたものになったようだ。俺は両親とのこんなやりとりを通して、相手を認める大切さを学んだ気がする。

 蛇足だが、その時俺の頭に今回の旅のことはまだ無く、計算づくの支援ではなかった。

 仕事の段取りは、日程の調整から始まった。俺の仕事はわりと多い。大阪と京都の二つの専門学校の非常勤講師、寺子屋塾・前原ゼミの教室が二つ、心理学セミナーの教室が二つ、不定期なものとしては心理カウンセリング、企業教育研修の講師、講演などがある。

 専門学校は夏休み。カナダの休日の関係で、帰国が9月6日になり、後期の授業を一回ずつ休む迷惑をかけたが、わがままを許してもらった。もちろん翌7日からは登校することにして…。

 塾はほとんど問題はなかった。初期の教え子達は既に大学生になり、俺のイメージする前向き思考と実力を備えた若者に成長していた。夏期講習も通常授業も彼らに任せることにして、俺は二つの塾のスケジュールを組み、教材を準備した。こういう作業は面倒だが、心はウキウキ状態で、つらいことなど微塵もなかった。

 心理学セミナーや研修などは、この間は休みを許してもらうことにした。

 今回の資金は、本の売上利益と豪州ツーリングの講演料とで準備はできていた。「本業での収入以外で」が俺の遊びのポリシーだ。豪州の時は家庭教師や占い、弁当屋でのアルバイトで稼いだと、こうして書きながら懐かしく思い出した。あの時は夜遅くまでと朝早くからで、眠かったけれど、充実していた時間だった。

 家族の旅費や小遣いは積み立てと定期の解約でまかなった。特に子供達の旅費は、同意を得てお年玉定期を当てることにした。外国に行ける、飛行機に乗れる、ということで、反対はなし。とりあえずの作戦勝ちであった。

 手続きの必要なものは。国際免許の申請と航空券の購入。資金はトラベラーズチェックに換えておく。カードは、VISAとMASTERの二枚所持。パスポートは俺も女房も期限切れ。共に申請が必要だ。特に女房は、新婚旅行でハワイに行ったとき以来なので当然だ。子供達のものは、帰国時の混乱と紛失などの事態を考慮して、彼女のパスポートにまとめることにした。

 荷物の準備は、今回もオーストラリアの時と同様、前日と当日の朝、まるで一泊のツーリングに行くような気分でパッキングをした。持ち物もそれらの旅と変わらない。着替えの衣類とシュラフ(寝袋)、調理用具一式、それにテントと雨具くらいだ。荷物がかさばるため、スリーピングマットや建材用ブルーシート(土方シート=以降、ドカシー)はもちろん、今回はヘルメットまでも、現地で購入することにした。

 家から関空まで約2時間。大阪から出発できるのでずいぶん楽だ。

 忙しい仕事の合間を縫って、田野卓也・敬尹子(けいこ)夫妻が、空港までバイク用グローブを餞別にと届けていただいた。中野眞理子さんも、講演で近くに来たからと、Tシャツと手紙を持って、見送りに来ていただいた。

 家族との涙の別れは、今回は必要ない。みんなで笑顔で出発ゲートに向かい、1995年7月21日(金)15時20分発アメリカ・デトロイト経由のノースウェスト機でトロントへと飛び立った。

 

……次回『ワクワクの旅立ち準備~トロントにて』に続きます


*金閣寺のご縁

2010年03月21日(日曜日)

★ 金閣寺のご縁
8月20日 (月) 晴れ時々曇り所により雨  26日目
 明け方、寒さで目が覚めた。無茶苦茶冷える。温度計を見ると6℃。テントのフライシートが表も裏も露でびっしょりだ。こんなに気候が変わるとは思っていなかった。パースへは午後着けばいいという気持ちで、しばらく煙草をふかしながら、地図を眺めてぼんやりする。
 隣の老夫婦がモーニングコーヒーを勧めてくれる。おじいさん、いやおじさんの方は、モトクロスで何度もオーストラリアチャンピオンになったことがあるとかで、今はパースでモーターサイクルショップを経営している。まぁ今はリタイアして、息子に任せているらしいが。
 当然バイクの話になる。リアタイアの山がもうほとんど無くなっており、チェーンもあと7~8000キロあるシドニーまではとてももたないだろうと、相談してみた。彼は、
「メカニックの腕は良いので、パースで息子を訪ねてみろ。きっとうまくやってくれる」
 と言って名刺をくれた。

 久し振りに(ひょっとして初めて)洗車する。洗濯用の粉石鹸をタオルにくるんでそれで拭いて、あとは水で洗い流しただけ。オイルと赤土まみれになっていたのが、なかなか奇麗になった。
 それにしてもリアタイヤの減りが早い。この国のシールドロード(舗装路)はビッチメンと呼ばれ、アスファルトではあるが結構粗い。未舗装の道路は、グラベルロード(よく固まった土道)、ダートロード(一般の未舗装路)、トラック(小路)などと呼ばれている。そういうところを走ればタイヤの寿命ももっと長いのだろうが、俺が計画している一周ルートは、現在ではほぼ舗装されているらしい。オフロードタイヤではこの減り方も仕方がないか。
 朝早くに、管理人のおじちゃんが料金を集めに来た。昨日は払っていなかったのだ。3ドル。だからシャワーもトイレも洗車も、いっぱい水を使ってしまった。

 ちょっと走ると、ジェラルドトンという町に出た。日本から持って行ったただ1枚の名刺、ロバート・ロックマン氏の職場に電話する。彼とは2年前金閣寺で出会った。俺はその時塾の小学生を連れて、外人ハントに行っていた。彼は農業局の役人で、国際会議出席のため、家族と京都を訪れていたところを知り合ったのだ。その後連絡は一切してなかったのだが、彼は覚えていてくれた。
「是非泊まって行け。食事も一緒にしよう」
 と言ってくれる。こっちにも少しはその期待もあったのだが、宿泊所が初めて昼前に決定した。こうなるとちょっとプレッシャーが掛かるのも不思議なものだ。やはり旅は行き当たりばったりが一番。今夜の宿はどうなるのか、と少し不安がある方が俺にはいいみたいだ。
 次の町で銀行に寄った後、ペトロールを入れ、昼飯を食い、ついでにコーヒーを飲みながら、日本へのハガキを書く。気持ちが乗っている時にと思い、結局9枚も書いてしまった。時計を見ると1時半。パースには5時に着くと、さっきの電話でロックマン氏に伝えていた。あと360キロを3時間半、時速100kmでOKなのだが、そううまくはいかない。気に入ったところがあると、止めて写真を撮ったりで進まない。

 様々な緑のフィールドが拡がる裾野に向けて、峠の上から1本の道がゆるくくねりながら続いていく。スリーピングマットをクッションの代わりにして、スピードメーターの上に置き、更にタオルを敷いた後、ビデオカメラを予備のパッキングロープで縛った。
 この風景はとても俺の能力では文章にして残すことは出来ない。走行しながらビデオに残しておこうという魂胆だ。ボタンが押さえ付けられているのだろう。すぐにズームアップしてしまうのを手で止めながら、時々ファインダーを覗いて走る。気が付くと、アクセルはいっぱいまで回っていた。スピードは分からず。だが片手でコーナリングして危ないものだった。
 途中、いきなり雨が落ち始める。急いでビデオをしまい、荷物にプラスティックのごみ袋をかぶせて走り出す。合羽は着ない。すぐに雨雲の下を通過。しばらく走るとまた雨。こういったことが数度繰り返されて、また突入。今度はヘルメットのシールドを雨が流れる。しかし合羽は着ない。突っ切るぞ。もし降り続けていれば、アウトだ。次第にウェアが冷たくなってくる。
「失敗だったか」
 と思ったあたりで雲をぬけた。120km/hで巡航していると、間もなく乾いた。きれいな虹。また写真。そんなことをずっとやっていて、パースに着いた時は、既に6時を回っていた。
 電話をかけて、ロバートに迎えに来てもらう。平屋だが、前には芝生の庭があり、家の中は白い壁。色の濃い木製の綺麗な家具。暖炉。シンプルだが、とてもくつろげる家だ。奥方のジュリアンも笑顔で迎えてくれた。持って行った写真を渡す。あのとき6ヶ月だった坊やは、もうすっかり大きくなっている。挨拶してくれるが、よく聞き取れない。すぐにロバートが通訳してくれる。シャワーを使わせてもらって、やっと落ちついた。
 夕食は、ミートスパゲティ、サラダ。ビール付でとてもうまかった。パースに滞在中、ずっと泊まれと言ってくれる。いいのかなぁ、ほんの僅かの時間、京都で知り合っただけなのに。久しぶりに家の中で寝られる。

パース ロックマン氏宅泊
本日の走行 Northampton ~ Perth 487km

……次回「家族写真と妻の髪」へ続きます

北米旅③ *いい塩梅の…

2010年03月17日(水曜日)

★いい塩梅のこころ加減 ~日本にて

「前原さん、次の目標はどこですか?」

 1990年のオーストラリア一周ツーリングの2年後、旅の日記をまとめて『自由じかん20000km』と題した本を自費出版した。新聞・雑誌に記事が載ったことで、テレビ・ラジオにも何回か出演の声がかかった。講演も何度もさせていただいた。その後で、必ずといってもいいほど出てきたのが、この質問であった。

 「まだありません」

 その時はそうとしか答えようがなかった。それが正直なところだった。

 豪州バイク旅という、俺にとってはたまらないほどの夢を実現し、さらにそれを本にするという夢も実現できた。その余韻を味わうこともなく、次の欲望を無理矢理つくるようなことをしたくはない。

 「次は○○です」と即座に言えば、格好は良いのかも知れないが、無理して背伸びをすれば、自分が自分でなくなる。余韻と想い出に浸る時間は、充電の時でもあるのだ。これは趣味であってビジネスではない。自分の気持ちが盛り上がってくるのを待てばよい。こんな心のいい加減さを大事にしたいとゆっくりしていた。ともすれば、『いい加減』は、おおざっぱで無責任という悪い方に解釈されがちだが、俺は『いい塩梅(あんばい)のこころ加減』として、自分の心のバランスをとるキーワードのひとつにしている。

 そして待った甲斐があり、新しい目標が出来た。北米大陸一周。その気持ちは、自分の思いとは少し違って、かなり急速に盛り上がっていくことになった。

 カナダ・アメリカを選んだ一番の理由は、実弟が仕事での出向で、家族と共にカナダのトロントに住んでいたことだ。映画『イージーライダー』のような旅にあこがれ、いつかはアメリカツーリング、との思いはあったが、
 「ビッグバイクに乗ったアメリカの旅など、いつでも出来る」

 という思いも同時にあった。だが、『いつでもできる』は、『いつまでもできない』に通じる。実際、俺は長年京都に住みながら、観光都市としての京都はあまり知らない。思いついた時がやる時なのだ。

 それに基地になる場所があるに越したことはない。まして弟の勤務先はヤマハだ。バイクを選ぶ際にも何かと情報を得やすい。日本ではライバル会社であっても、海外では横の交流がかなりあると聞いている。他社のバイクでも入手は大丈夫だろう。色々な生きた情報も得られるはずだ。夢はこうして膨らんでいった。

 夢実現の一番の難関は、今回も女房をどう説得するかだった。

 84年の日本一周は、スンナリOKが出た。オーストラリアの時は、ずーっと反対。両親も女房の味方になり、その連合軍を説得せねばならなかった。資金づくりやルートを考えるよりも、これらの行為の方がずいぶん大変だった。今度もそういうことをクリアーするのは、非常にしんどく思えた。あれこれ案を練ってみたが、結局、最良の方法は、

 「やっぱり、みんなで行くしかないか」

 という扶養家族を持つ親父としては、ごく当たり前かつ単純なものだった。

 子供達の夏休みに合わせ、家族を一緒に連れていき、彼らは弟の家庭に預けて、俺は準備ができ次第、ツーリングに出かける。数日間は、観光もしながら家族一緒に過ごせる。弟家族への迷惑を別にすれば、俺にとっては、いいことづくめの思いつきだった。

 「バブルも崩壊して、状況も変化しているから、いつ帰国命令が出るかわからんよ」

 という弟の言葉は、計画を急がせるに十分だった。2年も3年も待ってはいられない。正月に思いついて、夏に実行に移すことにした。

 「行けば何とかなる」

これは俺のいつもの考え方だ。だが気楽に構えてはいても、やるだけのことはやっておかねばならない。

…… 次回 『家族をいかに説得するか』 に続きます

*道なき道

2010年03月12日(金曜日)

★ 道なき道
8月19日 (日) 晴れ時々曇り  25日目

 昨夜の雲はどこへ行ってしまったのか。空はすっかり晴れ渡っている。気持ちのいい朝だ。それにしてもシェルの上にいきなりテントを張るのは、ちょっと乱暴だったか。割れた小さな貝殻で、テントを傷付ける可能性が大きい。やはりグランドシートは必要だ。
 濡れたテントとシュラフを干し、いつものようにチェーンを手入れして、オイルを継ぎ足す。荷物を整理していると、ホールズ氏が、
「コーヒーが入ったから、来ませんか?」
 と誘ってくれた。好意に甘えて、今朝はティーをいただくことにした。
 やがて俺の出発準備が整うと、それまでその様子をじっと眺めていた2人が、記念撮影をしたいという。最初は夫人と、次に御主人と2枚撮ってもらった。そしてエンジン始動。キック一発。よおーっしゃ、決まったぃ。姿が見えなくなるまで手を振った。

 地図の上ではすぐ近くに見えても、モンキーマイアまではずいぶんある。しかし濃い緑の林の中を一本道がアップダウンを繰り返しながら、ずっと北へ延びている。丘の上から見える海も、海岸近くはシェルの白、それから緑、沖はブルーとはっきり分かれていて、本当にきれいだ。退屈するわけがない。この辺りの海は塩分が多すぎて魚は近寄らないと、昨夜ホールズ氏から聞いた。
 10時到着。入場料が5ドルらしいが、ボート運搬用車両の所から入れば必要ないと、やはりホールズ氏が教えてくれていた。その通りやった。ちょうどイルカがやって来ていて、皆裸足になって海へ入っている。俺はブーツを脱ぐのが面倒で、そのまま浜から、ビデオとカメラの両方で追いかけた。浜では大きなペリカンが遊んでいるが、みんなの目は海の中の親子イルカに注がれたままだ。イルカがいなければ、こいつも主役になれたのだろうが。俺はそいつがじっとしているときに近づいて、きっちり記念撮影をしてきた。子供達の顔が思い浮かぶ。さわらせてやりたいものだ。

 モンキーマイアから24km、同じ道を引き返す途中、斎藤さんから聞いていたデンハムという町に、給油のため立ち寄った。坂を下って行くと、海岸沿いの道路に出た。何と穏やかなこと。俺好みの町だ。海面が道から僅か1mぐらいの所にあり、狭いが砂浜が道に沿って続いている。珍しく小さな土産物屋に入ってみた。ここは、オーストラリアで一番西にある店だとか。なぜか宗谷岬を思い出してしまう。あそこにも、日本最北端の店というのがあったからだ。単純な俺。
 更に129km引き返し、やっと昨日右折したオーバーランダー・ロードハウスへ出る。見ると1人の日本人ライダー。パスするつもりだったのに、急きょ予定変更。パーキングエリアに入って行った。俳優の西田敏行に似た帽子を被っている青年、東京から来ている坂口彰男氏が、
「4日間で2000kmの砂漠を走って、ようやく抜け出してきたところ。何十回となくこけて、ウィンカーもミラーも無くなってしまった。もうボロボロですよ」
 と話してくれる。40分ほど話していると、埃にまみれたライダーがやってきた。俺と同じXT600だ。坂口さんが両手をあげて大声を出しながら駆け寄る。
「無事ならそろそろ逢うはず」
 と、さっき彼が言っていた知り合いの鷹取一さんが偶然にも現われた。1ヶ月ぶりの再会とのことだ。オレンジのモトクロスウェアはすっかり色あせている。彼もまた、道なき道を走り、地元のアボリジニーが、道に迷って何人も死んでいるような奥地に入りこみ、2日間で農家の車1台に遭ったきりのようなところを走ってきたらしい。日程の関係で俺が諦めざるを得なかった、世界最大の1枚岩、マウント・オーガスタス(エアーズロックの2倍の大きさ)へも行ってきたという。どんなものだったか、その感想を聞くと、岩肌には植物が群生していて、エアーズロックほどのインパクトはなかったとのことだ。
 彼らの話を聞いていると全く凄い。道なき道、ストックルートを選んで走る全くの冒険旅だ。ただただ脱帽。とても真似が出来ない。俺のやっている一周など、子供だましに思えるほどだ。まぁ人それぞれだし、一番やりたくて、現在の俺にできる精一杯のことが、今やっていることなので、これでよしとするしかあるまい。
 ロードハウスで昼飯のトーストサンドを頬張りながら、そういう話を聞き、結構わくわくした楽しい時間が過ぎた。記念撮影をして別れる。彼らはこれからシェルビーチへ向かい、俺は南へ下って行く。

 それにしても色々な旅や冒険のスタイルがあるものだと、その後の240kmをノンストップで110km/h巡航しながら考えていた。
 オーバーランダーから200kmも下ると、突然周囲に濃い緑が増えてくる。今までは、淡い色ばかりだったので、よけいに強烈で、新鮮さを感じる。普通の草(牧草か作物)の色が、こんなに奇麗だったとは。そして、緑の色がこんなに沢山あるとは。この頃から気温も急激に低くなり寒くなってきた。震えがくるほどだ。
 ほどなく小さな町があった。キャラバンパークもある。今日はここでテントを張ることにした。飯を炊きながら、チェーンを張ったり、メンテナンスをやっていると、隣のキャラバンから、
「コーヒーはいかが?」
 と声がかかった。いかにもオージーというような老夫婦だ。有難く情けを頂戴することにした。旦那が持ってきてくれる。3枚のビスケット付きなのが嬉しい。このところよく施しを受ける。これからは托鉢ライダーとでも名乗るか。
 益々気温は下がり、9時半現在、外気温はもう10℃を割っている。ここは本当にもう冬なのだ。つい5~6日前までは、泳ぎたいほどの暑さだったのに、随分と下ってきたものだ。

ノーサンプトン・キャラバンパーク泊(3$)
本日の走行 Shell Beach ~ Northampton 457km

……次回「金閣寺のご縁」へ続きます

北米旅② * 序章 旅に出るワクワク

2010年03月11日(木曜日)

いつでも出来ることは

いつまでも出来ないにも通じる

だからいつも心のいい加減さを大事に

ワクワクしながらスタンバイする

 

◆ 冗談じゃねぇ! 今さら戻れるか!!

「うぉ~っ!?」

今まで続いていた快適なアスファルトが、突然ぬかるみの道に変わった。

UNDER CONSTRUCTION(工事中)≫の立て札をビュン!!と通り過ぎた時はすでに遅かった。

1時間程前の雷雨をうまくやり過ごして、太陽も出ていたために、気持ちにスキができていたか!?

俺の心を見透かしたように、あの大雷雨はここに罠を仕掛けていたのだ。

 気がつけば、俺はとんでもないスピードで悪魔のような泥の海に突っ込んでいた。反射的にブレーキをかける。前輪が滑ると、このスピードでは立直しがきかない。俺は無意識に後ろブレーキのほうを強く踏んだ。

 

 直後、バイクは後輪がロックして後ろが左に滑る。すぐさまハンドルを左に切って、カウンターを当てる。後ろブレーキを離すと、右斜め前方に走り始めた。目の前は崖だ。体重を左にかけ方向修正、すぐブレーキ。

 荷物満載1100ccのバイクは、車体を左右に大きく震わせながら、またタイヤを滑らせる。今度は左前方だ。路肩には大きな石がたくさん積んである。ぶつかればただでは済まない。右足に体重を掛け、ハンドルも右へ。

 バイクが垂直に立ったほんの一瞬、前ブレーキを心持ち強く握った。前輪が滑る。すぐ離す。瞬間瞬間が、命のやりとりだった。

 こういう時は絶対に諦めてはならない。諦めたら最後、直後にコケる。全神経をコケずに止まることに集中し、全力を出した。そしてそれはうまく行った。車体を右に左に振りながらも俺は、相棒を無事に道の真中に停車させることができた。足をつくと、あまりの緊張感で、身体がガタガタ震えているのがはっきりとわかった。

 この道は補修ではなく、新しく作っていると言ったほうが正解のような気がした。それほど道路の状況はひどい。ブルドーザーで削った土や岩がそのまま路肩に残されている。おまけにさっきの雨ですっかりぬかるんでいる上に、車が何台か通ったあとなので、再スタート後も前輪、後輪共にズルズルにすべる。

 気はまったく抜けない。足をつくのはたいてい水溜りの中。そこが滑らないからだ。ブレーキも水の中のほうが効き易いようだ。濡れることなどどうでもよかった。ヌルヌルの土がバイクにもブーツにもつきまくっていて、水溜り以外の所で足を着くのは、メチャ疲れる行為だったから。

 数台の車と出遭ったが、むろん手を挙げて挨拶する余裕などない。ホーンだけ鳴らしてすれ違った。前方で立往生している2台のハーレーを発見。近づくと、手を振って俺を止め、

「この先5マイル(8km)ほどもこの状態らしい。もうこれ以上進むのは無理だ」

 と、30歳位の男が言う。頭にはヘルメットの代わりに、バンダナを巻いている。もう一人の奴も両足を着いたまま腕組みをして、頭を横に振っている。

「冗談じゃねー!いまさら戻れるか!」

 そう思ったが、俺は冷静に言葉を発した。彼らとのやりとりで、どの程度の危険度なのか探ってみるためだった。彼らの言葉を無視して、突っ込んでいくだけの勇気は、まだない。ここはアメリカ、俺の知らない危険がどれだけあるか判らないからだ。

「今来たひどい道も5マイルほどだった。その情報が正しければ、俺達は丁度まん中にいる所だ。行くも返るも距離や状態が同じなら、行ったほうがいいと思うが……。正直、俺は行きたい」

 俺が言うと、バンダナ男はため息をついて、

「そうだな。行くしかないか」

 と言って、腕組み男のほうを見た。見られた奴は首を小さく横に振ったが、それが否定でないことは俺にはわかっていた。

 二人がエンジンを始動させた。ハーレー独特の排気音が山中に響き渡る。彼らに続いて俺も走り始めた。俺もこんな山奥では、万一のことを考えると一人よりも連れがある方がいい。

 悪戦苦闘の末、やっとのことドロ地獄をぬけ出した。ハーレー野郎達が道端に止まった。彼らはここでバイクやブーツについた泥を落とすとのことだ。

 俺は先を急ぎたかった。8時を過ぎて日も暮れてきた。今日中に、何とか親友のリードがいる『フィッシュン・フライ・キャンプ(Fish’n Fly Camp)』に着きたい。地図で近くの町を確認し、道路の案内を見ながら走れば何とかなるはずだ。距離は70マイル(112km)ほどだろうか。タイヤにさっきの泥がついている為、少し倒すとズルッといく。あまり飛ばせない。

 …次回『いい塩梅(あんばい)のこころ加減  ~日本にて』に続きます