前原弘昌のバイク旅

オーストラリア紀行 *自らの愚問に…

2011年05月02日(月曜日)

自らの愚問に笑う

8月27日(月)晴れ・強風  32日目

 ベッドにシュラフ(寝袋)を持ち込んでいたので、暖かく快眠できた。昨夜外は大雨だったらしく、建物の外は水浸し。久し振りにベッドで寝られたし、大正解といったところか。ドイツの彼女が七時過ぎにスタートした。普段はなかなか書けない葉書を日本に向けて数枚書く。落ち着いた時間。ゆっくりと準備をした。

 天気は西から変わる。今朝の西の空はほとんど雲はなく、東のほうへ移動している雲の後を追い掛けることになった。二〇数キロ走って、ドイツの自転車ねえちゃんに追い付いた。記念撮影する。名前は、イングリッド・ボン。年は知らないが、ペインティングの仕事をしていて、三カ月の休暇を取って来ているとのこと。これくらいの休暇は大丈夫だと言う。勤務体制にも余裕があるもんだ。
「なぜ自転車でこんなところを走る気になったのか。女一人でブッシュキャンプもしなけりゃならないだろう」
と聞いてみる。彼女の答えは単純だった。
「サイクリングが好きだからよ。あなたはなぜモーターサイクルで走っているの?なぜ車にしなかったの?」
と、逆に突っ込まれてしまった。愚問だった、と思った。笑い返すしかなかった。

 直接は関係ないことだが、どこかで聞いた言葉を思い出した。
「普通の人があまり行かないような所を旅しているのは、たいてい日本人かドイツ人だ」
人の話だけで確証はないが、それって、ひょっとして本当なのかな?経済的なこともあるのだろうが、民族性がそうさせるのかも知れないな。

 古い時代のオーストラリアが残っていると、昨夜ペニーじいちゃんに教えてもらったセデューナという町に、昼過ぎに着いた。その言葉通り素敵な町だった。緑が溢れていてとても落ちつける町なのだ。緑色の南氷洋も海岸近くは、白い波が一定のリズムで押しては返している。
 再びアウトバックへと入っていくため、この町では出来ることは全てやっておくことにした。郵便局と銀行。ぺトロ・スタンドで給油、オイル交換、エアフィルターの洗浄。もちろん全て自分でやった。マーケットで食料と酒を調達して、この町を発った。
 しばらく走ってウィルラという小さな町でエアHWY(一号線)を離れ、北へ進む。スチュアートHWYへの近道のため、ここからは約三〇〇㎞のオフロードを走ることにしていた。しかし、フロントのサスペンションは例によって自転車並みで、重い荷物のため、あまりスピードは出せない。ここは本当に荒野だ。岩場や枯れた湖があちこちにあり、土埃にまみれた草地が広がっている。
 岩場の陰から何かが飛び出してきた。斜め前を同じ方向に走っていく。エミューだ。飛べない鳥ではダチョウに次いで大きいこの鳥が、必至に逃げる格好は可哀想でもあったが、後ろから眺めていて滑稽だった。

 三時にウィルラを出たので、日没までにはスチュアートHWYに出られるのかなと思っていたら、とんだ誤算。日没時には、まだ一〇〇㎞を残したところで、のんびりと記念撮影をしていた。
 日が暮れてからのロードはもう大変。カンガルーさんやら羊さん、うさぎさんがどこから出てくるのかと思うほどいっぱいだ。特に羊さんなどは、大群で道の真ん中でたむろしている。アクセルを空ぶかししながら近付くと、一目散に前方に逃げていくので、もうほこりだらけ。前も見えない。おまけに明るいうちはそうでもなかったのに、前輪が砂にとられ、危うく転倒しかけたことが何度もあった。こんな荒野の中だから、家もない、当然明かりもなく辺りは真っ暗。通る車も一台もなく、ちょいとスリルのある走行だった。

 八時前、やっとスチュアートHWY沿いにあるグレンダンボーという小さな町に出る。給油して、町から少し離れたトラックのパーキングエリアの片隅にテントを張る。トラックも車も全く無し。風が強く、テントが飛ばされそうなくらいだ。飯を炊きながら日記を付ける。

    本日の出費 54・37ドル
   グレンダンボー・トラックパーキング泊(タダ)
      本日の走行 Nundroo~ Glendambo  544・4㎞

 ・・・ 次回「ヤバイ!走る避雷針」に続きます


オーストラリア紀行 *ストックマンの涙

2011年04月26日(火曜日)

ストックマンの涙

 8月26日(日)曇・雨  32日目

 オーストラリアでも天気は西から東へと移っていくと、今日立ち寄ったロードハウスで聞いた。まるで雨と一緒に旅をしているようなものだ。 朝から降ったり止んだりではっきりしない天気だ。雨対策装備は、例によって万全。しかしバックパックも防水シートに包んで載せているため、リアに荷重がかかり過ぎ、チェーン、タイヤへの負担が気になる。

 道路脇にカメラのマークが付いた『SCENIC・LOOKOUT(景勝展望地)』の看板が三ヵ所程あった。こんな細かい心遣いは珍しいことだ。雨が降っていてうっとうしかったのだが、ハイウェイから右にそれ、ダートを四〇〇m程走って行ってみる。いきなり眼下に南氷洋が現われた。 高さ二〇〇mはあろうか、切りたった断崖があり、そのまま海に落ち込んでいる。柵などない。地面には所々大きな裂け目もあり、高所恐怖症気味の俺にとってはスリル満点の場所。毎度のことだが、売店などはなく自然のままなのがとてもいい。TVで何度か見たことがあったが、ここらの地域だとは知らなかった。

 しばらく走ると『NULLARBOR』の看板。遂にたどり着いた。かの有名なナラボー平原の基地になっているところだ。ここのロードハウスは綺麗だった。屋根付のパーキングがある。コーヒーを飲んでいるうちにも、キャラバンを引っ張った車がどんどん給油に立ち寄る。ここでまた時刻が変わっていた。四五分だけ時計を進ませた。これで何度時刻調整をしたことか。NULLARBORとは、ラテン語でNULL・ARBOR(NO TREE)の意味らしく、文字通り木がなく、三六〇度低い丈の草地が広がっている。そこを何百キロにもわたって、平地の直線路が東西に延びている。たったこれだけの単純な地理・地形なのだが、心は無茶苦茶開放的になる。これで天気でも良けりゃー、もうぶっ飛んでしまうだろう。だが俺には少しブレーキがかかるくらいが、ちょうど良いのかも知れない。お陰で俺もバイクもオーバーヒートしなかった。

 更に走って、ナラボーから一四五キロ東の小さなロードハウス、ナンドゥローへ着く。もう暮れかけていた。雨対策として被せていたブーツのナイロン袋はボロボロになっており、レインスーツの上に被っていたゴミ用のナイロン袋も風圧でボロボロ。髪もあご髭も汗で濡れてグシャグシャ。

 ハウスへ入ると、皆が冷やかし半分で声を掛けてくる。
「グダイマイト!」
「ハロー、グダイ!」
おかげですぐに打ち解けることができた。コーヒーが出された。まだ注文していなかったのに。
「彼のおごりだよ」
マスターの方を向くと、一人の老人をあごで指し、説明してくれた。ペニーというそのオージーはここに一週間程滞在しているという。さらに彼の部屋へ招いてくれ、ビールも三本ご馳走になる。人生についての深い洞察を持っているおじいちゃんで、話の内容には迫力があり、しばらくの間聞き入った。「どこまで行くのかね?」
「オーストラリア一周。もう少しで達成です」
「いい人生勉強をしているな。若い時は何だってしたらいい。いや、十分に年取ってからでも、もう一度、本当の勉強や人生をやり始めることは出来るんだから」
「はい、分かります」
「これは出来ない、などとは決して考えないことだ。決してそういう言葉を使うべきじゃない。やりたいことがあるなら、それを一生懸命やることだ。それが良かったか悪かったかなど、年を取ってから考えればいい。善悪などその時代や状況によって変わっていくものだ。人生に無駄なことなど一つもないのだから」
「あなたは若い頃は何をしていたんですか」
「昔はストックマンだった」
「ストックマンというと、あの、動物…」
俺はその言葉の正確な意味を知らなかった。
「アメリカでは牛の世話をしたり、それを追いながら旅をする男をカウボーイと言うが、ここでは牛だけでなく、羊もカンガルーも全ての動物を相手にするので、ストック(=アニマル・動物)マンというんだ」
「じゃ、アウトバックでの生活が多かったんですか」
「ほとんどがそうだった。ずいぶんひどいこともした。アボリジニーを射撃ゲームのように撃ち殺していた。ひどいことだったが、あの頃はそれが国策みたいなものだった。沢山殺せば英雄だったのだ。分かるかね。こういうことが」
「戦争の時は、そうだと聞いたことはあります。実際の戦争は体験していないけど」
彼の目には光るものがにじんでいた。俺にはその涙が何を意味するのか、はっきりつかみ切れなかったし、彼にそれを問うこともできなかった。殺りくしたアボリジニーに対する謝罪なのか、時代に流された自分を責めているのか。

 青い空、太陽、緑の海と珊瑚礁そして笑顔が溢れる自由な国。オーストラリアはこういうキャッチフレーズが使われ、今やハワイを抜いて№1の観光地として脚光を浴びている。しかし、つい一五年程前までは、白人以外の移住は認めない白豪主義と言う政策をとっていた。
 二〇〇年前にこの大陸にやってきた白人達は、先住民で狩猟や採集の生活をしていたアボリジニーを撃ち殺しながら、領地を広げてきた。当初恐らく何十万といた先住民達は、今わずかに二〇万人弱になっている。居留区が定められ、活動が制限されては、自由とはとても言えない。これ迄されてきたひどい差別、迫害の根がなくなっているのではない。生活保護の金が出てはいるが、酒の魅力に取り付かれた彼らには、そのほとんどが酒代に費やされ、アル中になっている者も多いと聞いた。

 アメリカが開拓という名のもとに、先住民のインディアンから土地を奪ってきたのと同じく、この国もまた白人の武力による侵略で出来上がってものなのだ。日本もかつて北海道に入り込んで、やはり先住のアイヌの人達に同じような迫害を加えてきた。犠牲者はいつも罪のない人達だ。
 インディアン、アボリジニー、アイヌ、これらの人々に共通していることは、天を知り、自然と一体になって、何千、何万年も変わらぬ生活をしていたことだ。彼らの考え方や文化には、宇宙の真理とも言えるものが貫かれていた、とは俺の肩入れのし過ぎだろうか。建国とか開拓とかいう言葉の裏には、先住の多くの人々を殺して、土地を含めた財産を強奪し、文化を消滅させるという意味が隠されている。
 疲れとアルコールの回った身体ではあったが、それくらいのことを思い浮かべることは出来た。同時に体がブルッときた。きれい事を言って、そういう行為を離れたところから責めることは簡単だ。しかし、俺が迫害する側の人間ではないと言い切れるのか。周り全てがどう変わっても、俺は人間尊重の気持ちを貫けるのだろうか。絶対に自信がある、という保証はない。ペニーじいちゃんとの話は、ちょっと重い課題を引き出してしまった。

 二杯目のコーヒーは、ここのオーナーがおごってくれた。これがまたいい人。情けがある。大雨でもあるし、どうしようかと迷っていると、一五ドルでドミトリー(共同宿舎)に泊めてくれると言う。旧西ドイツから来て、自転車でパース~アデレード(約二五〇〇㎞=日本縦断の距離)を走っている女性と同室。ベッドは七つあるが、二人だけだった。
 互いの旅の話を簡単にして、俺はすぐに日記を付け始める。向かい風が強くて、燃費は一五㎞/ℓとすこぶる悪かった。ペトロは田舎でもあり、一リットル八九セント(一〇六円)と、市部の五九セントと比べるとちょいと高い。

  本日の出費 84・45ドル(内燃料48・25ドル)
    ナンドゥロー・ロードハウス泊(15$)
    本日の走行 Madura ~ Nundroo 530・2㎞

…次回「自らの愚問に笑う」に続きます

オーストラリア紀行 *あれもこれも…

2011年04月20日(水曜日)

あれもこれもワイルドに

8月25日(土)曇・雨 31日目
  ノースマンの朝は、強い東風に吹き付ける雨。ナラボーは今まで走ってきた人に聞くと、ほとんどが雨ばかりだったと言う。この旅の最初には、ニューキャッスルで様子を伺って一日ステイしたが、終わりに近付いた今ではそうは言っておれない。完全雨対策をして出発する。今日はXTのエンジンはなかなか起きてくれなかった。キック100回までは数えていたが、後はわからない。もう腰がガクガク。走り始めてしばらくすると雨は止んだ。しかしどんよりとした灰色の空が、遥か東方にまで続いている。オーストラリアの雲は雨雲だけでなく、晴れている時のわた雲もずいぶん低いところにあるように感じていたが、今日は更に低くたれこめている。アップダウンはあるが、道はここもまた真っ直ぐ。暇なので、どのくらいまで見えるのか一回測ってみた。小高い丘の上から、何回かアップダウンを繰り返し、次の丘の上までなんと一二・五km。ずっとそんなところが続いている。今日はオーストラリアに来て初めて生きたカンガルーを見た。時速一一〇kmで走行していると、二〇〇m程先を二匹が横切った。僅か五~六秒で進む距離だ。ブレーキを踏むと、もう一匹大きな奴が飛び出してきた。こいつは危なかった。危うく旅が終わってしまうところだった。下手すりゃ俺の人生も。その後も道端に転がっているカンガルーの死体はやたら多かった。相手は大きな車だったのだろう。南無…。午後一時、給油と昼食のためロードハウスに立ち寄る。ベーコンエッグバーガーとコーヒー。日本での俺の食生活ではまず考えられないが、ここではこれが普通になってきた。
 
 最初俺はハンバーガーと言えば一種類しかないと思っていた。それで注文すると、ハムがはさんである。当たり前のことなのだが、食い慣れない俺は知らなかった。隣の人が食っているのがうまそうだからと聞いてみたことがある。
「すみません。それは何と言うんですか?」
「ベーコンエッグバーガー。サラダを付け足すこともある」
 なるほど、ベーコンと目玉焼きがはさんである。単純な名前だった。サラダ付となると、レタスやトマト、胡瓜がはさんであって、厚みは10センチにもなる。慣れないうちは食い方が難しく、中身をはみださせることもしばしばあった。サラダ付と言っても、別に皿で盛られているわけではないのだ。
 ちなみに分厚い牛肉がはさんであるのが、ビーフステーキバーガーであり、値段はチキン等より安いというのが、日本人の俺には不思議に思えるところだ。ではハンバーグがはさんであるのはなんと言うのだろうか、と当然のことながら思ったが、田舎にはそんなのはおいてなかった。そんな七面倒くさいものは作らなくても、ワイルドにそのまま使っているというところか。
 イギリスから来て、やはりバイクで東半分を巡って来たという中年男が話しかけてきた。彼の愛車はCX500。ハンドルがアップしたアメリカンスタイルで、日本ではGL500で出ていたものと同じだ(多分)。
 キャンプの話になる。
「やり方を見せようか」
「ぜひ見てみたい」
 彼は自分のスタイルを実演してみせてくれた。テントは、俺も使っている建築用のドカシー(土方シート)をバイクから地面に向けて張り、その下に完全防水のスリーピングマットを敷く。頭には、眼だけが開いたフェイスマスク。これで完全だと言う。なんともシンプルですばらしい。後に知ったが、軍隊もこのスリーピングマットを使っており、少しかさばるが欲しくなる代物だった。
「これが本格的なオージーのキャンプスタイル」
と、彼が話してくれた。
「なるほど。これぞ、ワイルド」
こんなやり方と比べたら、俺のものなど箱庭の遊びか、とも思えるほど可愛いものだ。
 
 次のロードハウスまでは、五十mもの長さのロードトレインと抜きつ抜かれつで二五〇㎞走った。大迫力の道を走る機関車。こっとが前を走るときは、けっこう緊張する。一三〇㎞/hで一〇〇mも離れずについてくるのだから、ずっと前ばかり走っていたのでは、身も心ももたない。ここで二度目の休憩。ロードトレインも駐車場に乗り入れてきた。毛むくじゃらのドライバーと、椅子を四つか五つ隔てて、コーヒーで乾杯。ここではコーヒーだけ。一杯が120円というのが妙に嬉しい。
 段々に木の数が少なくなってくる。夕闇も迫った頃、やっと目的地のマデューラに到着。体力的にはもう少し走れたが、安全を考えて止めにした。パースで立てた計画よりも、一~二日遅れて少し焦る気持ちもあるのだが、ここまで来れば最後はどうとでも調節できる。気になるのは、この雨だ。明後日くらいに走るダートは大丈夫なのだろうか。もしこの近道が利用できなければ、更に二日程余計にかかる。そうなると日程的にちょっと困ったことになる。改めてこの土地の広さを感じた。
 宿は雨を考えてモーテルに、とも思ったが、料金は最低で五二ドル。ガソリン代を含めた一日の生活費に匹敵する。即止めにして同じ敷地内のキャラバンパークにする。これだと四ドル。弱気になっている自分を少なくなってきた残金が戒めてくれた。
 それでもブッシュキャンプよりずっとましだ。トイレもシャワーも使えるし(シャワーは使わなかったが)、明かりもある。これを楽しまねばと思い、ビールを買いに走った。ここの酒場で会ったおじさんに聞くと、人工衛星からのTVの画像では、ずっと強い雲がかかっていたとか。

 本日の出費 47.5ドル(五七〇〇円)
 マデューラ・キャラバンパーク泊(4$)
 本日の走行 Norseman ~ Madura 532・6㎞

 …次回「ストックマンの涙」に続きます

 



 
 


オーストラリア紀行 *雨の日の…

2011年03月07日(月曜日)

                             *** オーストラリア紀行 毎週月曜日更新 ***
★雨の日の赤玉ポートワイン

8月24日(金)  曇・雨夕方止む 30日目

 雨にであった。久し振りに本格的なもの。朝テントをポツポツと打っていて止んだが、東に向かうにしたがって雲行きが怪しくなる。一応荷物をビニール袋で包み、カッパを着込んでの態勢でバイクを走らせる。
 
 今日は初めてガソリンのリザーブ(予備)を使った。今までガソリンは心配することなく走ってこれたため、今日も標識を見ても、
 「ふーん、次は一四〇km先か」
 くらいにしか思わず、雨のほうに気をとられていた。満タンにしたらいつも〇kmにしているトリップメーターが五一三kmのところで、ノッキングをし始めた。コックをリザーブに切り換え、時速八〇kmをキープ。何リットルのリザーブになっているのか知らないので、少し肝を冷やした。だがガス欠になってもこのハイウェイでは何とかなる。一〇分か一五分に一台の割りで車は通る。止めてみれば、誰かは分けてくれるだろう。結局四〇数キロ走って、スタンドにたどり着いた。まだ底のほうには音がするくらい残っていた。

  かつてゴールドラッシュで栄えたカルグーリへ向かう。あの大陸横断鉄道、インディアン・パシフィックの四七八kmに渡る世界最長の直線路が始まる町でもあり、前から訪れたいと思っていた。前方には黒雲。雨なのは分かっていた。四〇km走って町に着いた。町中の道路の路肩は一m位の幅で泥水が流れている。その量が凄い。どこからこんなに水が集まるのか。これで雨季の大洪水もちょっとは納得できる。
 
 大スーパーマーケットのウールワースとKマートがある。グランドシートとネットのロープを買うことにした。ネットロープはあのお気に入りのサングラスと共に、ユララ(エアーズロック)で落としてしまっていた。ついでにスーパーのプラスティック袋も余計にもらい、ブーツカバーにする。グランドシートを荷物の上に覆い、ネットを掛ける。もう完全防備だ。インディアンパシフィックに沿って走る小路があり、そこを行きたかったが、この雨で断念。南へ向かった。

 五時過ぎ、ハイウェイでのナラボー平原越えの起点、ノースマンに到着。寒かったのでまたワインを買う。近くのキャラバンパークで雨を気にしながら、テントを張った。が、ワインは失敗だった。
 「アメェ!」
 よく見るとPORTのラベル。赤玉ポートワインだった。まっ、ないよりいいか。肉をかじりながらこいつを飲んで寝ることにしよう。オーストラリアで一ヶ月が過ぎていた。この間の走行距離は、通算一三五七五km。

ノースマン・キャラバンパーク泊(7・5$)
本日の走行  Southern Cross~Norseman 419・5km

次回  「あれもこれもワイルドに」へ続きます


 

オーストラリア紀行 第4章

2011年03月07日(月曜日)

第4章 冬の旅空、寅さんはゆく
ナラボー~再びエアーズロック

 どしゃぶり雨でも
 走れたらうれしい
 晴れたら晴れたで
 うれしくなる
 バイクで旅ができる
 それだけで十分だ

★“油断”コントロール
8月23日(木)  快晴風冷たし 29日目

 朝早くに目が覚めてしまった。食堂でルートを検討しているとオーナーの武田正俊さんが起きてこられた。
三六歳。小柄だが実に均整のとれた身体だ。にこやかで謙虚な姿勢に好感が持たれる。
 武田さんは以前は体操の選手で、現在はトライアスロンに挑戦中だとか。月一度くらいの割りで開催されているマラソン大会にはずっと参加していて、成績もかなり優秀だと宿泊者達から聞いていた。それで朝夕のランニングはずっと続けていて、朝練は軽いとのことだったので付き合わせて もらうことにした。俺はここに来て煙草の本数も増えているし、ちょっと不安だったが、岬の灯台を回って帰ってくる五㎞程のコースを話をしながら走った。
 「スポーツでのマインドコントロールには、以前からすごく興味を持っていたんです」
 「そうですか。ほとんどのスポーツで使われていますしね」
 「そういう関係の本は何冊か読んだことがあるのですが、実際にそういう仕事をしておられる方とお会い出来て嬉しいです」
 「いやこちらこそ。身体を気持ち良く動かす感覚を思い出すことが出来ました。武田さんは、トライアスロンにも出られると聞いたんですが」
 「ここは恵まれていましてね、水泳などは地元のプールで、一流のアスリートが指導してくれるんです。お金は三~四〇〇円ぐらいですかね」
 「えーっ、それはいいですねえ。でもトライアスロンて大変なんでしょう?」
 「いえ、こちらのミニコースは、水泳が六〇〇m、自転車二〇㎞、ラン六㎞と、ずいぶんやり易いんです」
 「じゃ、初心者には最適ですね。話を聞いているとやりたくなりますよ」
 「是非またやりにいらしてください」
 どうしてもスポーツや心理学に関する話が多くなる。一週間後に開かれるロードレースには、武田壮の宿泊者も出るとのことで、茂木さんも別のコースで一人練習していた。
 帰国後石川さんが手紙で結果を知らせてくれた。距離は一〇㎞。武田さん、茂木さんは自己新記録。あの柔軟の池田さんは走るつもりはなかったのに突然走り、完走した。しかも裸足で。彼は『靴を履いている』というイメージを持って走ったところ、血豆さえ出来なかったとか。初心者としては驚くべき応用力に思わず歓声をあげてしまった。
 武田さんからは、三ヶ月後便りを頂いた。
『必要な情報をインプットし、ポジティブな気分でスタートラインにつけば、必ず良い結果が出るという事も分かりました。九月三〇日には二〇㎞で今まで自分が壁と思っていた七〇分を切ることができました。年を重ねても記録は向上する。ブレーキをかけているのは年齢ではなく、その人本人の潜在意識に内在する、と思えるようになりました』
 と。この時も自分のこと以上に嬉しかった。
 わずか一夜の滞在だったが、居心地が良く、随分と思い出が残った場所になった。
 積み込みを済ませ、記念写真をして、昼過ぎ皆に送られて出発。途中食料やらパンクの瞬間修理剤を仕入れた。これはチューブには余り良くないらしいが、砂地などでバイクを倒して面倒な作業をしなくて良い手軽さは、使う使わないは別にして、持っているだけで安心感がある。

 再びパースへ戻って、期待に胸を膨らませながらスロットルを開けていく。ここから一路東へ延びているグレート・イースタンHWYに入るときだった。大型トラックの少し後ろを走っていたので、大きな合流地点で信号を見落としてしまっていた。気が付いたときには、右前二〇m程のところを車が数台右折してきていた。
 「しまった!!」
 急ブレーキ。リアタイヤが一〇m位スリップして流れ、カウンターをあてるとまた逆サイドに流れ、ハンドルを必死で左右に切り、カウンターをあてながらバランスを保とうとした。暴れ馬に乗って、ロデオをしているみたいだった。完全に事故った、と思ったが奇跡的にコケず、大きな三叉路交差点の左側に停車させることができた。 
 「あー、びっくりした」
 交感神経が思いっきり働いて、心臓の鼓動がすごい。手足も震えている。一〇〇㎞/hは出ていたから、コケたらバイクも身体もただでは済まなかったろう。車はこちらを見ながら、徐行スピードで通り過ぎていく。パトカーはいない。
 ダートでの練習は、休みの日たまに遊び半分でしていたくらいだが、それでもその経験はここでずいぶん役立ってくれた。そして痛感したことは、『絶対に諦めてはいけない』ということ。あきらめない限り、身体は全能力を出して対応してくれる。人生も同じに違いない。その後は、信号には特に気を払った。
 油断はできない。ここでポックリ、と思うとぞっとする。日本に連絡が行き、家内が血相を変えて飛んでくる。しかし、俺にはそれがもう分からない。こんな迷惑のかけ方はない。これは日本でも同じことだが、今は特に他国を一人で旅しているのだ。素人の俺にとってこれは一つの冒険なのだ。生きて帰らねば。待ってる人がいてくれる。油断とは油が切れることらしい。心も機械も油断大敵、ということか。
 が、パースに来るまで四〇〇〇㎞程、まともな信号に出合っていなかったし、この先も一〇〇〇㎞以上の単位で信号はなかったので、『注意一秒』を続けるのは結構しんどく、いつの間にかこの気は、緩みかけていた気を引き締める人生論に変わってしまっていた。
 昼食は昨朝出掛ける時にロックマン夫人が作ってくれたサンドイッチを頬張った。地図を眺めてみる。時刻は三時。どうもカルグーリまでは行けそうにない。あと五五〇㎞程もある。ずっと手前に、サザン・クロスという町があった。そこまでなら三〇〇㎞。町の名前もズバリ南十字星。いいではないか。そこまで行こうと思い、また走り出す。日中も風が冷たかったが、夕日が落ちると更に冷たさ、寒さが増してくる。冬というのを思い出した。
 六時半到着。日本へ電話を掛けて、家内に無事東へ向かっていることを知らせる。もうすぐ末娘の由佳の一歳の誕生日だ。その日はまだオーストラリアを走っている。祝いは、帰ってからしようということになった。

 町はずれのキャラバンパークの芝生にテントを張る。ここは三ドルだが、テントサイトは最高。すぐ近くの洗面所の蛍光灯で、結構明るい。芝も綺麗に整っていて気持ち良いし、食器の油を拭う砂もある。飯を炊き、今日買った肉を三枚焼く。酒を買いに町のバーへ行き、一番安いワインを一本手に入れた。酔って身体があたたまればそれでよい。トイレもシャワーもすぐ近くで、その明かりで十分明るいディナータイムが楽しめた。星もきれいだ。

サザンクロス・キャラバンパーク泊(3$)
本日の走行  Fremantle ~Southern Cross  393・3km

次回  「雨の日の赤玉ポートワイン」へ続きます