オーストラリア紀行 ~つなぎとめるより…
2009年07月18日(土曜日)
★つなぎとめるより、解き放って 目の輝く男でいさせて欲しい
時間は自営業の強みで何とか都合をつけた。塾は信頼できる大学生数人に任せ、他の仕事はその間ずっと休むことにした。
あとは周囲を説得しなければならない。OKをとってから出発日を決めるようなやり方では、この夢は実現はしない。だからとりあえず出発日を7月と決めておいた。その出発日が近づくにつれて、家内は心配顔になってきた。反対の態度もはっきりと出すようになった。
「私とオーストラリアとどっちが大切なの?」
「そんなのは比べられることじゃない」
「どうしても行くなら離婚すると言っても?」
子供も3人になっていた。
「そうしたくないから、こうして話している」
こういう会話がもう何度か続いていた。そのことを聞きつけた両親が岡山から出て来た。特に母からは猛烈な反対があった。
「いい年をして、嫁さんも子供もいるのに、何とバカなことを」
「もし俺がサラリーマンで、これが会社命令での長期出張か単身赴任だったらどうか。仕事ならば仕方ない、となるだろう」
「そういうのはへ理屈」
「俺にとっては、仕事も家庭もひっくるめた人生のエネルギーを得るもので、修行だとも思うとる。自分の生き方を確認し、精神的により豊かでより良き家庭を作りたいから旅に出る。へ理屈と思うなら思ってくれ」
最初はただバイクツーリングがしたいという単純な思いだったが、いつしか人生修行と考えるようになっていた。その時俺はもう本気だった。
「それが好きで、今一番やりたいことだからだ。何回考え直しても、この答えしか出て来ん」
「久美さんの気持ちを考えてみたか?」
「わがままですまんと思うとる。迷惑もかける。しかし、結婚しているから夢は諦めなきゃならん、なんて事は俺は思わん。このまま波風を立てずに、表面を綺麗に取り繕っていれば、文句は出て来んかも知れん。でも、心が家庭の中になければ、こんなに空しいものはない。そのまま年を取って、『ああ、あの時これをやっていたら』なんていう情け無い言葉は言いたくない。そんなつまらん家庭は作りとうない。迷惑を掛けた以上のものを俺は家庭に必ず持ち帰る。俺をつなぎとめて、ふぬけた男にするより、解き放って目の輝く男でいさせて欲しい」
家内の言葉は次の一言に尽きた。
「お父さんに何かあったら私はオーストラリアに行かせたことを一生後悔する」
これは時間をかけて話すよりなかった。絶対安全という保証などあろうはずはないが、そう言わざるを得なかった。まさか離婚してまで行けない。38歳の中年妻帯者が持った夢は、実現までに粘り強くこういう段階をクリアーしていかなければならなかった。
★戦地におもむくように出発
子供の夏休みにほぼ合わせ、できるだけ連絡も入れる、期間も3ヶ月が2ヶ月になり、さらに7週間までに短縮することで、やっと双方ギリギリの妥協案が成立した。どうせやるなら一周、と何の迷いもなく決めてしまっていたので、
「これ以上の日数削減は、命に関わる」
と、最低限の7週間は確保したのだ。
こうしてみると、俺のことを亭主関白でやりたい放題、という友人がいるが、いたって常識人間であり、真面目な男なのだ。あまり威張って言うことでもないが…。
家族4人は、その間家内の実家で預かってもらう。義父母にも心配かけてしまったが、気持ち良く送り出してくれた。今回のツーリングは、こうした周りの協力なくしてはありえなかった。
「笑って送るから、生きて帰ってきてほしい」
と、まるで戦地へ送り出すような家内の言葉。無理してつくった笑顔の目がもう潤みかけている。3人の子供は状況がよく分かっていないのだろう、はしゃぐばかりだ。友人の衛藤信之氏や森本満智子さんがソックスなどの日用品を差し入れに来てくれた。こうして合計6人の見送りを受けて、俺は旅の第一歩を踏み出し、1990年7月22日午後、大阪空港から羽田へ飛んだ。
羽田ではバイク仲間の内田哲也氏が、頼んでいたエンデューロパンツを持って笑顔で待っていてくれた。時間がなく、関西で手に入らなかったので、川崎に住む彼に東京で買っていてもらったのだ。俺の行動は万事こんなもので、綱渡り人生は直らんな、と苦笑してしまった。
ツーリングの準備も未だ万全ではなかったが、あとは出たとこ勝負だ。行けば何とかなる。今から50日、気の向くままのひとり旅を楽しんでこよう。気負いはなかった。何ともいえぬ嬉しさがこみあげてきた。
様々な思いを胸に、とにかく俺を乗せたカンタス80便は、午後8時成田を飛び立って、夢大陸・オーストラリアへと向かった。
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もう1冊の日記帳(1) |
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