前原弘昌のバイク旅

北米⑦*今この時を…

*今この時を大事にしたいから

午後からは試走を兼ねながら買い物。町中でスピードもあまり出せないが、スムーズに加速できて乗り心地は極めていい。右側走行だけでなく、左右のハンドルについている各スイッチの使い方にも、慣れておくに越したことはない。

スーパーやアウトドアショップで荷物のパッキング用ロープやドカシーをはじめ、あれば便利な小物を買い込んでいく。旅のイメージもそれに従って、徐々に盛り上がっていくのだ。

ところで、こちらのスーパーには『エキスプレスレーン』なるものが設けられていた。これは少量(普通8点以下)の買い物客専用のレーンで、スムーズにレジを通ることができる。日本の日常生活の中で、一品だけでも大量の買い物客の後ろに並んで待たねばならない不合理さを何度も経験したことがある。急いでいるときは特にそうだったが、このシステムは時間の節約にもなり、顧客の側に立ったサービス精神に思わず拍手!の気持ちになった。

出発は7月25日、と決めていた。まる4日ある。その間に旅の準備をしながら、家族と観光にも出かける予定も立てていた。行き先は、ナイアガラの滝だ。

4時半に起床して、弟の車に家族5人が乗り込んだ。義妹の裕子(ひろこ)さんは、車の手配ができなかったために留守番するとの事。片道150km、1時間半で到着。

テレビで見たことはあったが、実際に目の当たりにすると、スケールの大きさにのけ反りそうだった。地響きがするほどの水音、しぶき。五大湖の東から二番目のエリー湖から、一番東のオンタリオ湖へ流れる水が落ちていく。カナダとアメリカの国境をまたいで、カナダ滝(幅約780m、落差約56m)とアメリカ滝(幅約333m、落差約58m)に分かれている。

流れに目をやるとあまりの水流の激しさに滝壺に吸い込まれそうになる。

遊覧船『霧の乙女号』に乗り、約15分間の滝の下からの観光。下から見上げる滝は、アメリカ滝もカナダ滝も震え上がるほどのド迫力だ。支給されたブルーのレインコートを着てはいるが、水しぶきがかかりまくって靴やジーンズはずぶ濡れ。女房や子供達がきゃーきゃー言って、喜んでいる顔を見ていると、やっぱり一緒に来てよかったと思う。

俺は家族サービスなどとは思っていない。心配するから女房には言えないが、ツーリングの途中には何があるかわからない。家族5人で一緒に行動することも、あと何年かしかないだろう。だから俺はこういう時を持てることがとても嬉しく、また大切にしたいと思う。決して俺が家族に対して、無理をしながら、してやっている訳ではないのだ。

ツーリングの最後、アメリカからカナダに入るとき、ここを通るルートを予定している。その時はどんな経験と旅の想い出を持って、ここを訪れるのだろう。

明後日からの一人旅を想うと、妻や子供達との想い出をもっともっとつくっておきたいと思った。それが一人になった時のエネルギーになるのだから。

 

もう1冊の日記帳①

7月21日
 いつか来てみたい国のひとつだったカナダ。そこに今日やってきたのです。5年前、伊丹空港で寂しい気持ちで隠れて涙しながら弘昌さんをオーストラリアに見送った。だけど今日は家族みんなで、同じ飛行機に乗ってカナダまで来れたんだもの、こんな幸せはないよね。

飛行機の中で22日になるはずの夜を迎えたのに、また21日の朝を迎えてとっても変な感じ。

3日ほどすれば、弘昌さんは北米ツーリングに出かける。そのことを考えると、やっぱり寂しい……。

 

7月22日
 朝日がガラス越しにまぶしく顔に映った。「すっごーい、カナダの朝なんだー」と感激。

弘昌さんと孝司さんは知り合いの家に出かけ、夕方帰ってきた。ツーリング用品を少し買ってきている。もう心は旅へ。その嬉しそうな顔を見ていると、申し訳ないが私には不安がつのる。火曜日(25日)に出発するとのこと。あと2日間。せっかく子供達もそろっての家族旅行、しかも海外へ来ているんだから、いっぱい写真を撮って思い出作ろうね。明日は早起きしてナイアガラの滝を見に行く。夕食は外でバーベキュー。


…次回「第一章」へと続きます。お楽しみに。

北米旅⑥ *弟の粘り強さに…

*弟の粘り強さに脱帽

 この国で国際免許で車やバイクに乗るのは、3カ月以内の滞在者だ。3カ月を過ぎれば、カナダの免許を取らねばならない。3カ月までの観光ビザで来ている住所不定の男に信用はない。日本での任意保険の長期無事故証明書を持参していたが、あまり信用が増したようには思えなかった。先進国日本で用意されたものは、世界中どこでも水戸黄門の印籠の如く威力がある、とまでは思っていなかったが、ここまで信用されないとガックリくる。俺は、

 「もういいから他を当たろう」
 と、弟に合図しようと思った。しかし、弟は粘り強く食い下がって、何か突破口を見つけだそうとしていた。その姿に俺もすぐに思い直して、信用が少しでも得られるように合いの手を入れた。そのうち、契約は途中解除でき、払い戻し金もあるとの情報を引き出せた。契約するならこれしかない。そしてついに、870カナダドル(6万900円)で話がまとまった。嬉しいのと同時に、弟の姿勢に教えられた。俺が5つ歳上だが、長年海外で苦労し鍛えられた弟は、俺の予想以上に成長していた。

 日頃塾や専門学校などで、生徒相手にえらそうな事を言っていても、活動する場が変わればこの始末だ。俺はいつの間にか温室育ちになりつつあったのだ。語学力の問題だけではない。精神的に足りない何かを感じた。これは今回の旅のテーマになりそうだった。

 車で10分くらいの所にある、ナンバープレートを発行してくれる事務所に直行。俺の列は、中国系の女性が係官だった。

 「いい番号よ。3がついてるわ。中国では、3と8はラッキーナンバーなのよ。日本でもそう?」

 ナンバープレートが手に入っただけで、嬉しさがこみ上げ、何でもOKになっていた。その質問にも、にこやかに、

 「ええ、そうです」

 と答えた。ラッキーナンバーは人によって違う、というのが俺の考えだったが、別にこだわらなかった。自分の誕生日や今日の日付で馬券を買い、当たればそれがラッキーナンバーになる。パチンコをする人なら7や3か。マイナスイメージでとる人は、4は『死』だから縁起が悪いと言うが、『幸せを運ぶ』のは、4ツ葉のクローバーだ。俺はプラスにとりたい。1月1日は元旦でおめでたいし、八は末広がりだし、ラッキーナンバーはきりがないほどある。

 彼女の言ってくれた幸運の番号3は、俺のバイクも無事に旅を終える事ができる特別な番号のように思えた。

 ガレージで、ナンバープレートを取り付けた。

…次回『今この時を大事にしたいから』に続きます

北米旅⑤ *ワクワクの旅立ち…

★ワクワクの旅立ち準備~トロントにて

 家族と共にトロント空港に降り立ったのは、出発と同じ7月21日(金)の夕方。夕方とはいえ陽はまだ高く十分明るかった。

空港には弟の孝司が迎えに来てくれていた。空港からそのままヤマハのガレージに向かい、今回の旅の相棒と初の対面となった。

弟とのFAXのやりとりで、俺が選んでいたのは、『ヤマハXV1100ビラーゴ』だった。しかもそれは弟の手配で、最新型である96年型カナダ仕様の第一号機という代物(しろもの)。車高が低いので、足つき性がよく、ゆったりと座れるアメリカンタイプの大型バイクだ。今回のバイク選びでは、オフロードタイプも考えないではなかったが、この大陸ではやっぱりアメリカンにしたかった。何と言っても、本場なんだから。

色はブルーとシルバーのツートンカラー。一度は最高時速に挑戦してみたいスピードメーターは、200km/hまで刻んである。跨(またが)ってみると見た目以上に柔らかいシート。これなら長い距離でも、尻や腰への負担も軽くてすむだろう。後部座席には背もたれと小さなキャリア(荷台)つき。駆動方式はシャフトドライブなので、チェーン交換の心配はいらない。タンクは満タンで16・8リッター(4・4USガロン)、200kmくらいの航続は出来るだろう。後続車に危険を知らせるのに便利なハザードランプ付き。クラクションも自動車並みのやわらかい快適音だ。

オプションとして俺が依頼していた。高速クルージングが楽にできるウィンドスクリーン(風防)と、転倒に備えてのエンジンガードも既に取り付けてあった。弟とヤマハの現地スタッフの方々の厚意にすっかり甘えてしまった。これで京みやげ『生八つ橋』ひと箱とは、ケチり過ぎたか。

ヘルメットを買いに、バイク用品を販売しているショップへ行った。その店にはアメリカンスタイルのツーリンググッズとモトクロス用のグッズ、それとバイクが店内に所狭しと並んでいた。だがヘルメットは失敗。日本の方が、種類も品数も価格も断然恵まれていた。

ヘルメットと共に、革のサイドバッグを購入。シートの両側に振り分けられ、ロングツーリングではかなり有効に使えそうだった。

ところで、ナンバープレートを交付してもらうには、保険に入っておかねばならない。

事前に弟が2、3社当たってみたところでは、保険はないとのことだった。何とかできそうな会社でも、金額がべらぼうに高い。10万円以上かかるのだ。こちらの保険は自由競争だから、保険会社によって、金額はまちまち。やっと探し出した一番安い所へ出かけたのだが、バイク人口が少ないことで、担当のおばちゃんも取り扱いには慎重だった。国際免許で短期間バイクに乗ること自体が、大都市トロントでは普通ではないようで、話は進まなかった。

……次回『弟の粘り強さに脱帽』へ続きます

北米旅④ *家族をいかに…

★家族をいかに説得するか

 今回は女房も子供達も、とりあえずカナダまでは一緒に行ける。その後彼らを残して、一人でツーリングに出かけることについては、

 「えーっ、ずっと一緒じゃないの?自分だけちょっとずるいわぁー」

 とはいうものの、あこがれのカナダへ自分たちも行けるとあって、そうきつくはない。 

 5年前のオーストラリアの時、長男の宏光は小2、長女の未佳は幼稚園年中、次女の由佳は1歳の誕生日を迎える前だった。その子供達も、もうそれぞれ中1、小4、幼稚園年長にまでなっていた。そういう状況もうまくいった要因のひとつだろう。

 女房と子供達は三週間滞在し、俺は全部で48日間の予定。それで何とか了解が取れた。

 両親も前回の時とはうって変わって、ほとんど反対らしい言葉はなかった。だが、それには理由がある。昨春、彼らは二人でカナダに行ったのだ。その計画を聞かされたとき、俺は唖然とした。いかに息子とその家族が住んでいるとはいえ、入国の手続きなどどうするのだ。外国語などほとんど解らない、田舎育ちの70歳に手が届こうとしている老夫婦が考えついたことにしては、無謀とも言えるものだった。オーストラリアに行くとき、猛反対された仕返しには、絶好のチャンスだ。俺の意地悪の部分が頭をもたげた。

 「俺の時にはあれほど反対したのに、自分たちはどうなんだ……」

 と。そんな個人的な思いもあり、長男として、俺はどうしようか迷った。

 だが、そんな妨害はやめることにした。

 「反対しようかと思うたけど、俺には行きたいという気持ちはようわかる。それにこの歳になるまで、自分たちの楽しみはおいといて、財産もないのに子供を3人育ててくれたんやし、子供らもそれぞれ家庭を持った。もう自分たちが楽しんでもええわな。心配には違いないけど、向こうに行けば孝司がおることやし、こっちでできる協力はする事にした。ガイドブックくらいなら、選ぶの手伝うで」
こうして気持ちよく送り出すことにした。反対するより、やりたいというならうまくできるように支援してやろう。結局両親は向こうに一ヵ月も滞在し、大満足をして帰ってきた。その後の考え方も、昔風のかたくなな決めつけをするものから、少し開かれたものになったようだ。俺は両親とのこんなやりとりを通して、相手を認める大切さを学んだ気がする。

 蛇足だが、その時俺の頭に今回の旅のことはまだ無く、計算づくの支援ではなかった。

 仕事の段取りは、日程の調整から始まった。俺の仕事はわりと多い。大阪と京都の二つの専門学校の非常勤講師、寺子屋塾・前原ゼミの教室が二つ、心理学セミナーの教室が二つ、不定期なものとしては心理カウンセリング、企業教育研修の講師、講演などがある。

 専門学校は夏休み。カナダの休日の関係で、帰国が9月6日になり、後期の授業を一回ずつ休む迷惑をかけたが、わがままを許してもらった。もちろん翌7日からは登校することにして…。

 塾はほとんど問題はなかった。初期の教え子達は既に大学生になり、俺のイメージする前向き思考と実力を備えた若者に成長していた。夏期講習も通常授業も彼らに任せることにして、俺は二つの塾のスケジュールを組み、教材を準備した。こういう作業は面倒だが、心はウキウキ状態で、つらいことなど微塵もなかった。

 心理学セミナーや研修などは、この間は休みを許してもらうことにした。

 今回の資金は、本の売上利益と豪州ツーリングの講演料とで準備はできていた。「本業での収入以外で」が俺の遊びのポリシーだ。豪州の時は家庭教師や占い、弁当屋でのアルバイトで稼いだと、こうして書きながら懐かしく思い出した。あの時は夜遅くまでと朝早くからで、眠かったけれど、充実していた時間だった。

 家族の旅費や小遣いは積み立てと定期の解約でまかなった。特に子供達の旅費は、同意を得てお年玉定期を当てることにした。外国に行ける、飛行機に乗れる、ということで、反対はなし。とりあえずの作戦勝ちであった。

 手続きの必要なものは。国際免許の申請と航空券の購入。資金はトラベラーズチェックに換えておく。カードは、VISAとMASTERの二枚所持。パスポートは俺も女房も期限切れ。共に申請が必要だ。特に女房は、新婚旅行でハワイに行ったとき以来なので当然だ。子供達のものは、帰国時の混乱と紛失などの事態を考慮して、彼女のパスポートにまとめることにした。

 荷物の準備は、今回もオーストラリアの時と同様、前日と当日の朝、まるで一泊のツーリングに行くような気分でパッキングをした。持ち物もそれらの旅と変わらない。着替えの衣類とシュラフ(寝袋)、調理用具一式、それにテントと雨具くらいだ。荷物がかさばるため、スリーピングマットや建材用ブルーシート(土方シート=以降、ドカシー)はもちろん、今回はヘルメットまでも、現地で購入することにした。

 家から関空まで約2時間。大阪から出発できるのでずいぶん楽だ。

 忙しい仕事の合間を縫って、田野卓也・敬尹子(けいこ)夫妻が、空港までバイク用グローブを餞別にと届けていただいた。中野眞理子さんも、講演で近くに来たからと、Tシャツと手紙を持って、見送りに来ていただいた。

 家族との涙の別れは、今回は必要ない。みんなで笑顔で出発ゲートに向かい、1995年7月21日(金)15時20分発アメリカ・デトロイト経由のノースウェスト機でトロントへと飛び立った。

 

……次回『ワクワクの旅立ち準備~トロントにて』に続きます


北米旅③ *いい塩梅の…

★いい塩梅のこころ加減 ~日本にて

「前原さん、次の目標はどこですか?」

 1990年のオーストラリア一周ツーリングの2年後、旅の日記をまとめて『自由じかん20000km』と題した本を自費出版した。新聞・雑誌に記事が載ったことで、テレビ・ラジオにも何回か出演の声がかかった。講演も何度もさせていただいた。その後で、必ずといってもいいほど出てきたのが、この質問であった。

 「まだありません」

 その時はそうとしか答えようがなかった。それが正直なところだった。

 豪州バイク旅という、俺にとってはたまらないほどの夢を実現し、さらにそれを本にするという夢も実現できた。その余韻を味わうこともなく、次の欲望を無理矢理つくるようなことをしたくはない。

 「次は○○です」と即座に言えば、格好は良いのかも知れないが、無理して背伸びをすれば、自分が自分でなくなる。余韻と想い出に浸る時間は、充電の時でもあるのだ。これは趣味であってビジネスではない。自分の気持ちが盛り上がってくるのを待てばよい。こんな心のいい加減さを大事にしたいとゆっくりしていた。ともすれば、『いい加減』は、おおざっぱで無責任という悪い方に解釈されがちだが、俺は『いい塩梅(あんばい)のこころ加減』として、自分の心のバランスをとるキーワードのひとつにしている。

 そして待った甲斐があり、新しい目標が出来た。北米大陸一周。その気持ちは、自分の思いとは少し違って、かなり急速に盛り上がっていくことになった。

 カナダ・アメリカを選んだ一番の理由は、実弟が仕事での出向で、家族と共にカナダのトロントに住んでいたことだ。映画『イージーライダー』のような旅にあこがれ、いつかはアメリカツーリング、との思いはあったが、
 「ビッグバイクに乗ったアメリカの旅など、いつでも出来る」

 という思いも同時にあった。だが、『いつでもできる』は、『いつまでもできない』に通じる。実際、俺は長年京都に住みながら、観光都市としての京都はあまり知らない。思いついた時がやる時なのだ。

 それに基地になる場所があるに越したことはない。まして弟の勤務先はヤマハだ。バイクを選ぶ際にも何かと情報を得やすい。日本ではライバル会社であっても、海外では横の交流がかなりあると聞いている。他社のバイクでも入手は大丈夫だろう。色々な生きた情報も得られるはずだ。夢はこうして膨らんでいった。

 夢実現の一番の難関は、今回も女房をどう説得するかだった。

 84年の日本一周は、スンナリOKが出た。オーストラリアの時は、ずーっと反対。両親も女房の味方になり、その連合軍を説得せねばならなかった。資金づくりやルートを考えるよりも、これらの行為の方がずいぶん大変だった。今度もそういうことをクリアーするのは、非常にしんどく思えた。あれこれ案を練ってみたが、結局、最良の方法は、

 「やっぱり、みんなで行くしかないか」

 という扶養家族を持つ親父としては、ごく当たり前かつ単純なものだった。

 子供達の夏休みに合わせ、家族を一緒に連れていき、彼らは弟の家庭に預けて、俺は準備ができ次第、ツーリングに出かける。数日間は、観光もしながら家族一緒に過ごせる。弟家族への迷惑を別にすれば、俺にとっては、いいことづくめの思いつきだった。

 「バブルも崩壊して、状況も変化しているから、いつ帰国命令が出るかわからんよ」

 という弟の言葉は、計画を急がせるに十分だった。2年も3年も待ってはいられない。正月に思いついて、夏に実行に移すことにした。

 「行けば何とかなる」

これは俺のいつもの考え方だ。だが気楽に構えてはいても、やるだけのことはやっておかねばならない。

…… 次回 『家族をいかに説得するか』 に続きます