前原弘昌のバイク旅

オーストラリア紀行 ~エピローグ~

2011年07月19日(火曜日)

エピローグ  旅の終わりに

眼中になかったシドニー

 シドニーでの残りの2日間は、またたく間に終わってしまった。

 まず最初に考えなければならなかったのは、バイクの処分。バイクはやはり乗ってやらねばかわいそうだし、売り出すことにした。杉原氏に連絡がとれれば、バイクを含めた一切を彼に譲ろうと思っていたのだが、居所が分からず連絡がつかずじまいだったのだ。
 半日かけて洗剤で汚れを落とし、ワックスをかけてやる。見違えるほど綺麗になった。バイクショップはやめて、街に出回っている情報誌に広告を載せることにした。滞在中目一杯こいつに乗りたい、という単純な理由からだった。

 2日目、ピーターとコリンのヘルメットショップを訪れ、一周完走を報告。コリンは腕を三角巾で吊っていた。
「どうしたんだ」
「3週間前、ゴーカートのレースで、腕を折った。まだギブスがとれなくて、ずいぶん痛む」
と言っていたが、以前と変わらぬ陽気さで早速ビールを買ってきて、祝ってくれた。

 今回は普通の観光旅行ではないので、お土産は買わないことにしていたのだが、家内から近所の方に少しでもいいから買ってこいとのことで、夕方の2~3時間ブラブラとタウンホール近くをうろつく。夏休みに子供と遊んでやれなかったので、その罪滅ぼしに子供用のものも少し選ぶ。
「あっ、しまった。シドニーの写真がない」
気がついたときには、日はすっかり暮れてしまっていた。辻村氏の家があるノースシドニーからは、シドニー湾やハーバーブリッジが綺麗に見えたのに。だがもう遅かった。人工建造物が多く集まった美しさなので、どうしても、という気持ちは湧いてこなかった。カカドゥで受けたショックほどのものはなく、さばさばしたものだった。
「まぁいいか」

マンションに帰って、エンジンを止める。46日間、2万キロの付き合いだった。よく走ってくれた。パンクも特別チューブのためか、一度もなかった。ビッグタンクをなでてやる。いとおしさが手を通して伝わってきた。
「あばよ、相棒。世話んなったな。楽しい日々だったぜ。THANK YOU!!」

 荷物を整理する。ブーツもポリタンもマットもレインウェアも、その他ここで購入したものはほとんど置いて帰ることにした。
 それでも結構たくさんの荷物になった。帰国の準備は、午後10時完了。明日は、朝5時40分までに空港に行くことになっている。辻村氏の仕事が終わって、食事をして出掛けようということになっていた。
 空港まで15キロ。彼が車で送ってくれる。明け方降り始めた雨は、空港に着く頃には土砂降りに変わっていた。彼にはすっかり世話になった。なり過ぎたくらいだ。
「これは土産です」
彼が差し出したのは、プラスティックの10ドル札5枚だった。1988年に建国200年を記念して発行されたものとのことだ。もちろんカードのような固さではなく、一見紙幣と変わらないあの〝プラスティック“で造られたものだった。ガイドブックで読んだことはあるが、手にするのは初めてだった。
 バイクのことは彼に全て任せ、搭乗口に向かった。

…次回 「治安国家のロビーで一泊」 に続きます

オーストラリア紀行 月を見ながら…

2011年07月04日(月曜日)

月を見ながらウイニングラン

9月5日(水)晴れ 42日目

 ついに迎えた最終日の朝。一面に霧がたち込めて、バイクもテントもびしょ濡れ。しかし中々幻想的な世界だった。この分だと霧を抜けると青空が広がっているだろう。
 220㎞走ったヤスという町のスタンドで、オイルを交換する。前回の交換から、約5000㎞も走ってしまっていた。オイルの汚れと傷みはひどく、地面に落ちても少し経つと水のように広がってしまう。このスタンドの兄ちゃんは、あれやこれやと親切に道具などを貸してくれた。俺も売り上げに貢献するために、ここで昼食をとることにした。
 このまま突っ走れば、シドニーまであと300㎞くらいで、夕方には着きそうだったが、やはり仕上げは海岸線を走ってみたく、首都キャンベラを経由して南に走ることにした。

 キャンベラの町への入り口で、ギアは入っているのに突然バイクが走らなくなってしまった。エンジンは動いている。点検してみると、チェーンが外れていた。もう目一杯張っていたのだが、それでもたるんでしまい気にはなっていた。最後まで持つだろうと思っていたが、ちょっとのギャップに入り、外れたらしい。
 とりあえず街まで走って、バイク屋を探す。通行人に聞くと、ラッキーなことにすぐ近くにあると言う。2コマほど切って欲しいと持ち込んだ。担当した兄ちゃんは3コマ大丈夫だろうと切ってしまったが、切り過ぎでつながらない。このチェーンは、パースで交換したやつだったが、安くて結構早くからガタが来ていたので、スペアに持っていたものと交換することにした。パースから重量が増えるにもかかわらず、中古品を運んできたが、最後の最後でやっと役立てることが出来る。
「気にしないでいいから、安くしといてよ」
と言って、結局修理代、いや交換代たったの5ドル。

 キャンベラは緑が多く、建物も主要なものはあちこちに離れて建っている。いつも感じる事だが、駐車場の広さがすごい。ゆったりとしていて、しかも整然としている。バイクで走ってみただけの街だったが、さすがに都市計画の段階で世界中から出された案を検討しただけあって、他の街にあるような雑然さはなかった。
 朝、今日のルートを決めるのにスタンドのねえちゃんに聞くと、
「キャンベラから南のベイに出る道?テラボー(ひどいものよ)」
と首を振っていたので、少し腹をくくっていたのだが何のことはない。この峠道はまるで日本だ。快適なワインディングとアップダウンが続き、山脈を越えた。ここだけはオーストラリアという気がしなかった。九州か信州辺りの山の中を走っているという感じだ。
 とりあえずの目標標識は、タスマニア海に面したベイトマンズベイ(B・B)。そこからプリンス・ハイウェイでシドニーまでは一本道。
 ハイウェイに出る10㎞ほど手前の山の中で、車が道端に止まっており、ボンネットからは煙が出ていた。何と、おばちゃん(失礼、マダム)が1人でエンジンルームをのぞき込んでいる。Uターンして、
「大丈夫ですか?」
と声をかける。
「あまりよく分からなくて…」
緊急用の本を見て、1人何かつぶやきながら、調子をチェックしている。
『エンジンはかかるか』『オイルは漏れているか』『白い煙か、黒い煙か』とか状況によって対処の仕方が書いてある。
「ふーん、こういうものを持ってちゃんと使えるのがすごいな」
と思う。おろおろしないで、現状の認識とどうやればクリアできるかを考える。当たり前と言えばそれまでだが、日本でも同じだろうか。どう見ても60を過ぎているようなおばちゃんだ。お袋のことが思い出された。
 日没までの時間が余りなく、急ぎたかったが、何もできないまでも、しばらく一緒にチェックしてあげ、ゆっくりなら走れるようになったので、俺も出発した。こういうのを見ていると、放っておけない性分はどうしようもない。

 プリンスHWY・R1を少し急ぎ気味に北上して行く。あと250㎞。しかし太陽はもう時々隠れ初めている。
「まだ5時前なのに。そうか、ここは地平線まで落ちるのが見れないのか。山があるんだ」
 おまけに冬。ここのとこ雨続きだったので、夕日を見ていなかったことにやっと気が付いた。
 結局、旅の最後、海を眺めながらのウイニングラン(?)は諦めざるを得なくなり、代わりに月を見ながらすっかり冷たくなった空気を切っての走行となった。
 ミリタリー道路沿いにある辻村氏の経営する店に着いたのは午後10時。レストランは既に閉まっていたが、クラブは深夜まで営業していた。
「お疲れ様でした。遅いから心配していたんですよ」
と彼が出迎えてくれた。
「やあ、ただいま。心配かけて済まなかった。無事帰って来れたよ」

 汚れたウェアのままで、奥のテーブルに荷物を運んだ。出発時には準備中だったこの店も、すっかり軌道に乗ったらしく客も多い。日本の商社マン達に交じって、オーストラリアン・サファリの企画をした『TSP太陽』の人達も来ていた。彼の紹介で、2~3人の人と挨拶を交わした。
 俺のために彼が用意してくれた、店の一番奥のソファでビールをあおる。
「はぁー。ついに終わった」
両手を膝の上に置いて、天井を仰いだ。静かなため息が出てきた。たまらないほどの充実感と、祭りのあとの寂しさにも似た複雑な気分が、ビールとともにゆっくり身体にまわっていった。

  シドニー・辻村氏のマンション泊
  本日の走行 Holbrook ~ Sydney 717・4㎞

    *** *** *** *** *** *** *** *** ****** *** 
     もう一冊の日記帳⑥
      9月1日  お父さんから由佳の誕生日のお祝いのTEL。
      昨日かけてきてくれたから、今日は多分忘れている
      だろうと思っていたけれど、さすが~。ありがとう。
      あと8日。
    *** *** *** *** *** *** *** *** ****** ***

 …次回 『エピローグ 旅の終わりに』 に続きます

オーストラリア紀行 しめくくりは…

2011年06月27日(月曜日)

しめくくりはテントで

9月4日(火)曇時々雨 41日目

 肩の少し後ろ、肩甲骨の横が、焼け火箸を突っ込まれたように痛む。以前からコリはあったのだが、やはり毎日の負担は相当なものだったらしい。丸い石を患部に敷いて、仰向けになる。指圧ならぬ石圧か。それでもずいぶん楽になった。
 走り始めて最初に見かけた公衆電話から、カンタス航空への予約の確認を入れた。9月8日午前7時発。禁煙席を頼んだ。旅の終わりに煙草もしばらく止めようと思い、昨日から休煙し始めていた。フリマントルで武田さんに影響され、帰国したらトライアスロンの練習をすることにしていた。煙草は無用だ。ついでにシドニーの辻村氏にも、そこから連絡した。(8月半ばに連絡したきりだった。)
「前原さん、気になっていたんですよ。無事なんですか?」
「ああ、元気。しばらくぶり」
「今どこにいるんですか?いつこっちへ帰って来るんですか?」
「メルボルンに向かっているところだから、明日の夜にはそっちへ着けると思う」
「じゃ、気を付けて。楽しみに待ってます」

 メルボルンには昼頃着いた。大きいだけで大した印象はない。たくさんの人間がいるが、まるで乞食でも見るような顔でこっちを見る。ほとんどの人間がそうだ。こっちが驚いてしまった。まぁ、ビニール袋を沢山着けて、確かに奇妙な格好ではあるが。
 日本でも時々あるが、ここにもそれに似た俺の嫌いな雰囲気があった。見知らぬ者に対しての大らかなフレンドリーさとでも言おうか、そういうものが薄いと感じた。多分多くの人間の中で生活していると、人が懐かしい、などという感情は少なくなってくるんだろう。 
アウトバックで走っている時は、大都会からやってきた人達も多かっただろうが、それでも互いに手を上げて挨拶した。人を懐かしいと思える場所だった。
 大都会にいると人間は乾燥してきて、乾燥しているアウトバックの方が、人は感情が潤っていた。そう感じさせてくれたメルボルン。新しい高層ビルがあちこちで建設中だった。

 R1を南下して、海沿いにシドニーへ戻るつもりだったのが、道を間違え(何しろあまり地図を見ない)、最短コースのフリーウェイR31に入ってしまう。
「えーい。いいか。これも何かの因縁だろう。このまま行けば首都のキャンベラにも寄ることができるし」
 しかし眠い。たまらん。バイクを止めて(本当はイケナイのだが)道端に横になる。合羽を着ているので、少しくらい草が濡れていてもどうということはない。しばらく眠ってまた走り出す。
 後ろから車がどんどん追い抜いていく。左肘」をタンクについて110㎞/hで巡航していると、横に並んできた車から、こちらを見て左手の親指を立てサインを送ってくる。こっちは笑顔で同じサインを送り返す。フリーウェイにはこういう触れ合いがあり、心は和む。
 眠気覚ましに歌を歌うことにしたが、新しい歌など全く知らない。もう10年以上も歌など仕入れていないのではなかろうか。時代に取り残された人間になっているかな、などとつまらん事を考えてしまえるくらいに、頭と時間にゆとりがある。走行中に歌を歌うというのは、今回が初めてのことではない。いや、アウトバックを走ってきたほとんど毎日、歌わない日はなかった、と言ったほうが正確かも知れない。思いつく持ち歌を全部歌っても、全く足りず、時には2回り、3回りと続いていく。それほど直線路が長い、ということでもある。そして、真っ先に思い浮かぶのが、いつもこの歌だった。

♪夢にー飛びーこむー
    そーれがー若ーさだー
       そうともこれが青春だー♪

『これが青春だ』という、かつての学園もののテレビドラマの主題歌。ヘルメットの中で、どなるように歌い続けると、武者震いがくるほどの気持ちの高まりを感じる。こういう詩が、俺の人生観の土台になっている、とはうすうす気が付いていたが、この旅ではっきりそれを認識した。

「テレビばあ見とらんで勉強せえ!」
 口癖のようにこう言う親の目を気にしながら見た番組の数々。俺は岡山県西部の備中町という、山と川に恵まれた村で生まれ育った。今思えばテレビっ子世代のハシリでもあった。次々と20~30年前の歌が口をついて出てくる。テーマソング、フォークソング、歌謡曲、無差別なんでもあり攻撃。気持ちが見事にタイムスリップした。まさに青春時代だった当時の情景が、ありありと思い浮かべられる。歌にはそんな不思議な力がある。
 そしてこれは快適だった。眠気もふっ飛び、身体も疲れない。バイクの調子までも良くなった気がする。

 メルボルンから350㎞ほど走ったAMPOLのガソリンスタンドで給油して、そこの敷地の芝生の上にテントを張らせてもらった。レジのおばちゃんに話して、
「オーストラリア一周の、今夜がバイク旅の最後の夜なんです。一生の記念にあの芝生の上で眠りたいのですが」
と頼むと、
「トラックの運転手も時々寝ているから大丈夫でしょう。トイレもシャワーも使いなさい。お金はいらないから」
と言ってくれた。情けに感謝。雨が降るのは分かっていたが、やはりしめくくりはテントにしたかった。3日ほど前、あまりに寒かったので、もうおしまいと思っていたが、雨がちなのでそう気温は下がらない。大丈夫だろう。

 夕食は豪勢に肉と野菜、卵、飯。全部大盛。持っている材料全てを使った。そしてワイン1本。7~8ドルかかったが、日本でこれだけ食えば5000円は下らない。肉だけでそれくらいはするか。
 食後疲れてすぐに横になって寝てしまい、夜中ロードトレインがテントのすぐ側に止まる音で目が覚めてしまい、長々と日記を付けてしまった。頭が回らない。まとまりのない文なのだろうな。只今二時半。

  ホルブルックのスタンドの敷地泊(タダ)
  本日の走行 Stawel ~ Holbrook 627㎞

…次回『月を見ながらウイニングラン』に続きます

オーストラリア紀行 *居眠りの…

2011年06月20日(月曜日)

居眠りの雨中走行

9月3日(月)曇・雨 40日目

 朝食の後、ハームが菜園とか焼物の窓がある作業所を見せてくれた。すべて手作り。日本にこれをそのまま移しても、何の違和感もないだろう。 
 シゲさん(秋月氏)は今日帰国する。ワーホリ・ビザでカナダに渡り、バイクで中米まで回った後オーストラリアに来たので、一年半振りとのことだ。昨夜彼とこんなやりとりをした。
「明日の今頃は日本ですよ。まず居酒屋で焼酎飲みます。酒のあては焼きサンマ」
「あーっ、思い出す。大根おろしと醤油。パセリがちょこんと置いてあって。たまらんなー」
「でしょう?それと、肉じゃが。ズリ。日本人はこれですねぇ」
彼の話で、すっかり日本が恋しくなってしまった。あと1週間も我慢できるだろうか。夢の中に出てきそうなくらい、サンマのイメージが頭から離れなかった。

 P・ジャメインから一気にメルボルンを目指す。シドニーまで残り3日で2000キロ。1日700キロの計算になる。ややハードだが、その分楽しんだので仕方ない。
 アデレードまでは、250㎞位なのだが、霧が多くカッパを着なければならないほどだった。昨夜は遅くまで話していたので、その疲れが残っているのか、しばしば眠気に襲われ、休んでばかりで中々進まない。
 やっとたどり着いたアデレードは、古い町と新しい町がミックスされたような町だった。銀行でT/Cを換金する以外は、ゆっくりもできない。町の南にある公園のほとりで、荷物を全部ビニール袋に包み、シートをかけ万全の態勢をつくった。南のほうにはここよりもっと黒い雨雲が広がっている。給油をして一号線をマーレー橋のほうに下っていった。

 220㎞ほど下ったケイスのロードハウスで休憩。もうずぶ濡れ。気温も低く寒い。例によってベーコンエッグバーガーとコーヒーを腹に入れながら、ストーブで暖をとる。5時半。天気のせいもあるが、もう薄暗くなりつつある。雨は相変わらず降っていたが、更に走る。

 200㎞走ったホームハムで給油。かなり大きな町だ。ペトロスタンドの規模も日本並み。もう日はとっくに暮れていた。さすがに寒い。足も手もブーツやグローブの上にビニール袋を被せて、輪ゴムで留めているし、カッパの上にも大型のごみ袋に首と両腕が通せるように切って被っている。ごみ袋怪人だ。そんな恰好でペトロスタンドに入って行った。レジのおばちゃんがびっくり。
「安い宿を知らない?お金があまりないから」
と言ったら、そのおばちゃんがあちこちに電話してあたってくれた。
「可哀想なチャイニーズが困っている。空いている部屋はある?」
とか言いながら。思わず笑ってしまったが、別に訂正はしなかった。結局見つからなかった。
「親切にありがとう」
と礼を言い、もう9時を回っていたがもうちょっと走ることにした。目的地など無い。ひたすら距離を稼ぐだけの走行だ。真っ暗な雨の道をメルボルンの方向へと下って行く。体力の限界が近づいた。居眠りが続くようになる。ここまで来て、事故だけは避けなければならない。
 70㎞ほど南のスタウェルという町の公園にあったバーベキュー小屋の屋根を半分拝借してテントを張った。居眠りが続くようになって危険だったので、ここまでにしておくことにした。

  スタウェルの公園泊(タダ)
  本日の走行 Port Germein ~ Stawein 746・9㎞

…次回「 しめくくりはテントで」に続きます

オーストラリア紀行 オフロード…

2011年06月13日(月曜日)

オフロードの奥へ

9月2日(日) 快晴 39日目

 夜の冷え込みは昨日以上だった。4℃。持っているものを全部着込んで、YHのシーツにくるまってシュラフにもぐった。テントの内側には物をぐるりと置いて、外の冷気が通りにくいようにした。これ以上南へ行ったら、間違いなく風邪を引く。
 日の出とともに目が覚めた。フライシートを外し、乾かそうと裏返しにすると、驚いたことに露が凍っている。バイクのシートにも霜が降りていた。昨夜残り物を温めて朝食を済ませ、出発。
 残りの日数は少ないが、もう計算できる距離にある。更にルートを外れて、絵葉書に出てくるような雄姿のフリンダース・レインジ(山脈)・ナショナルパークのオフロードへ入ることにした。

 重い荷物を積んでのことだから多少の心配もあったが、思い切って奥深く入って行った。
「素晴らしい!」
思わず言葉がついて出る。道は曲がりくねってアップダウンを繰り返し、何カ所も道を横切って小川が流れている。その度に腰を浮かし、膝をばねにして水しぶきを上げて渡る。
「やっほー!!」
空気も景色も気分も最高。最初の30㎞ぐらいで、もう下半身はびしょ濡れ。更に奥へ進むと、俺の地図にはないトラックに入り込み、道が分からなくなってしまった。あちこちで川に分断され、ルートが見付からず、仕方なく引き返そうとした。そこへ4WDがやってきて、道を教えてくれ、更に詳しい地図までくれた。
 それに従って進み行くと、川の上流に向かって道があり途中で途切れた。100mほど向こうに続きの道がある。水も綺麗だし、引き返すほどの危険はなさそうだ。水深と川底の状態を確認して行けそうなところを見付け、渡ることにした。荷物を下ろせば良かったのだが、面倒くさがりの俺は、バックパックのみを下ろし、バイクのパワーに頼ってそのままトライ。膝まで水につかり、大きな岩を避けてのジグザグ走行だったが、こけもせず成功。続きの道までたどりついた。
 山脈(日本アルプスほどの高さはなく、連山と行ったところか)の裏側を走るストック・ルートは、全く眺めも良く気持ちはすっかりハイになった。土の道の上を野うさぎが何匹も横切って、道端にある穴の中へ駆け込んでいく。こんなところばかりを求めて、走る人の気持ちがよく分かる。自分のペースで走ることが出来、すごく楽しかった。早くハイウェイに出たいなどとは全く思わなかった。

 やがてオフロードを抜け、ホーカーという町に出た。給油のついでにエア・エレメントを洗浄する。赤い土ホコリだらけだった。道理でパワーが落ちていたはずだ。舗装路でも90㎞/h以上出なかったからなぁ。
 ここからはR47で、ポート・オーガスタ方面へ向かう。夕方になると、霞で遠くの山々がよく見えない。あとアデレードまで400㎞。ちょっときつい。間もなく日没。寒さが急に厳しくなった。
 と、そこから50㎞弱のポート・ジャメインという町の入り口でYHAの看板を見付けた。右に折れ町に入る。
 落ち着いた感じの喫茶店のドアを叩く。この店とYHAは裏表で続いていると聞いて来た。
「こんにちは」
出迎えてくれたのは、ここの娘さん。何と日本語ができる金髪の美女で、名前をルースと言った。オーナー一家は、大の日本びいき。喫茶室には、主人のハーム手作りのはた織り機から、豊橋の消防団のはっぴ、こいのぼりなど日本人でさえ懐かしさを感じる品物がいっぱい。居間には琴も置いてあり、書棚には日本関係の本がぎっしり。
 ルースは留学で豊橋に二年住んでいたことがあるとか。他の宿泊者は日本人の秋月茂さんとスイス人男性の2人だけ。共に長期宿泊者で、すっかりここの住人といった感じ。奥さんのティンキーの食事も美味しく、無茶苦茶アットホームな温かいところだ。いい人達と出会った。旅の疲れがとれていく。

  カジュアル・アウェアーYHA泊(8$)
  本日の走行 Leigh Creek South ~ Port Germein  408・1㎞

…次回「居眠りの雨中走行」に続きます